ふるさと再発見くさかべ大池公園だより&ふるさと再発見「おおいけ」第16号より転載

山陽線の赤レンガのアーチ橋は近代遺産   「谷尻1号」から青葉団地の「山の開渠」まではこちらをご覧ください。
 山陽本線の砂川鉄橋から南に谷尻,そして草ヶ部の青葉団地の南の端の「山の端開渠」までの約2kmを線路に沿って歩いてみると,約100m間隔で,線路を横断する水路や鉄橋があります。なかでも浮田橋の手前の県道沿いの赤レンガのアーチ橋(橋梁)は、120年前積まれたままの美しい姿を今でも保っていて、谷尻では1号、2号.3号と親しまれて呼ばれています。
 また砂川鉄橋の瀬戸よりにも、2つのアーチ橋があって、県道上から眺めることができます。
赤レンガのアーチトンネルに入ると、大正13年の複線化工事で拡張された下り線の部分はコンクリートで継ぎ足されているのが判りますが、他の橋梁でも赤レンガの橋脚がそのまま残っています。
 ちなみに群馬から長野に山越えする碓氷峠の明治26年に建設されたアプト式鉄道の赤レンガで築かれた橋梁(カルバート)は、国の重要文化財に指定されて観光スポットになっています。岡山県内でも山陽線の三石地区にも赤レンガのアーチ橋が残っていて、平成17年に岡山県教育委員会が刊行した「岡山県の近代化遺産」にも掲載されていますが、この浮田橋のたもとの五つの赤レンガのアーチ橋も明治の文明開化の遺産ではないでしょうか。
 ふるさとの観光スポットの一つとしてクローズアップしたいものです。
谷尻の「3号」


山陽鉄道の建設の歴史
 JR山陽線は今から約120年前の明治24年3月(1890)に神戸から岡山までの89km.が開通しました。その歴史をたどってみると、山陽線は児島湾の開拓や柵原鉱山などで知られた関西財界の藤田伝三郎が発起人となって設立された山陽鉄道株式会社によって、神戸から下関まで敷設されましたが、明治39年には国に買収されて国営鉄道となって、明治42年には山陽線と改称され、大正13年には複線化の工事が行われています。
 上郡〜岡山闇が電化されたのは昭和35年ですが、それまでは蒸気機関車が煙を吐きながら客車や貨物列車を牽引していました。
 そして山陽鉄道が開通した当時は、客車と貨物車の混合7両編成の列車が一日に約6往復、客車一両の定員は30名で客車の暖房は火鉢、灯りは灯油ランプであったとのことですが、神戸まで馬車で急いでも3日はかかっていたのが、約5時間で旅行できるという驚異的な出来事でした。


農民による反対運動
 山陽鉄道は、当初は今の赤穂線のルート、赤穂から片上〜西大寺〜岡山へのルートが計画されたが、蒸気機関車の煤で塩が黒くなるからとか、それまでの高瀬舟と内航船によって栄えてきた片上や西大寺などの港町がさびれる。水田がつぶれる、水路や農道が分断されて牛が驚くなどで住民の猛反対にあって、上郡から三石トンネルを抜けて三石〜和気の北ルートになりました。また瀬戸からは観音寺を通って東岡山に抜けるルートが計画されていたが、観音寺に有力者がいて猛反対したために、瀬戸から南に進路を変更して砂川鉄橋を渡ることになったそうです。しかし谷尻では大地主が疲弊していたため田地を売ってしまったという話や、革ケ部でも青葉団地の西の法追(ホウエイ)を抜ける計画があったとのことですが、結局は沼の忠霊塔のある東尺藤の山裾を大回りして沼の茶屋を抜けて、進路を西に戻すという今のルートになったようです。また、大正の複線化の工事のときか、砂川鉄橋の橋脚は難工事で,しまいには潜水夫が潜って掘ったそうです。
 戦後に実施された農地改革までは、小作人制度によって、多くの人が地主から水田を借りて耕作していましたので、農作業に困ると反対しても阻止できなかったのかもしれません。

カルバート工事で汗を流した村人

 明治23年9月「山陽鉄道カルハート工事 定雇根鑿運送賃金渡之帳 革ケ部」などと書かれた和紙の帳面には、綱引き、土堀、バラスの運搬などで働いた人の名前と日当が詳細に書かれていて、私どもの祖父や祖祖父などが、綱引き(測量)や土運びなどで汗を流したことが記録されています。
 この帳面を記載したのは嘉永5年(1853)年生まれの草ケ部の中西重次郎で当事36才でしたが、上道町史によると、前年の明治22年6月に新しく合併して誕生した浮田村の初代の村議に選出されています

 カルパート工事とは土木工事の専門用語で、線路や道路の建設によって分断される水路や道路の底に暗渠を埋めたり橋を架ける工事のことですが、「山陽鉄道カルハート工事」と朱書されていることは、明治初期の文明開化の鉄道建設には、先進国のアメリカから多くの技師を招いていますので、英語がそのまま使われていたものと思われます。
 この帳面には明治23年の8月から9月の猛暑の中、5号から9号工区で綱引き(測量)、掘削、パラスの運搬などで雇われた人の名前と賃金が詳細に記帳されていて、賃金は16銭8厘が支払われています。明治23年の米の相場を調べてみると米一俵が2円、米一升が5銭とすると3升買える程のお金ですが、今の時代に換算すると、米一俵が1万6千円としても一升が400円、約1200円の日当ですが、当時としては貴重な現金収入であったのではないでしょうか。

線路の盛り土はどこから運んだか
 谷尻や草ケ部でも、金に困っていたので土を売ったという田畑の話が残っていますが、砂川鉄橋から草ケ部を通り抜けて沼までの約2kmの線路の盛土やバラスは、どのようにして運んだのでしょうか。
「土運搬引合台帳」には、三枚一章、四駄などと記入されていることから、線路の両脇に掘られた用水の残土や、近くの田や畑の土は人夫がモッコ(荒縄で編んだ篭)をオウコ(棒)で担いで運び、また向山の東の山裾を崩して採取した土砂やバラスなどは、竹で編んだカコに盛って荷車に積んで、牛か馬で引っ張って運んだのではないでしょうか。また谷尻では砂川土手でトロッコを押していた女の人が事故で亡くなったと云う悲しい話も聞きました。

編集後記
 山陽鉄道の開通にまつわる話はまだまだ残されていると思いますが、残念ながら多くは聞かれませんでした。皆さんからのご投稿をお待ちしています。
 年末の大池には100羽以上の野鴨が羽を休めていました、向山や小廻山の紅葉を眺めながらのウオーキングは快適です。皆さん一緒に歩きませんか。(中西)
                   連絡先  くさがべ大池公園愛護委員会事務局 中西 厚